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戦術と戦略について最強の教訓世界史から考える

個人的に、戦術と戦略の話は結構好きです。他のページにも書きましたが、戦術と戦略について、一番身を持って理解できるのは、田中芳樹著の銀河英雄伝説だと思います。

面白いことに、神野正史氏による最強の教訓世界史!の中にも戦術と戦略をを見極めよという章があります。当然、切り口は違ってくるので、どのようなものか見ていきたいと思います。

戦略と戦術の混同について考える

銀河英雄伝説のなかでは、戦略と戦術というのは、ヤン・ウェンリーと、ラインハルト・フォン・ローエングラムの対比で表されることが多いのですが、最高の教訓世界史の中では、キチンと戦略、戦術といった言葉が定義づけられています。

  • 戦略・・・最終目的を達成するための大まかな計画方針。
  • 作戦・・・戦略を成功に導くための個別的・具体的計画。
  • 戦術・・・作戦を成功に導くための現場での手段・方術。

とあります。

戦略とか、戦術というのは、もともとは軍事用語で組織論によく出てくる単語。だから、会社に置き換えて表現されることも多いです。都合のいいことに、最高の教訓世界史でも、会社経営に置き換えて表現されています。

会社経営で考えると

  • 戦略・・・幹部会議で経営方針が決められ
  • 作戦・・・その経営方針に基づいて、プロジェクトが立ち上げられ
  • 戦術・・・プロジェクトを達成するために現場が臨機応変に対応する

といった具合です。

目的、目標を立てて、どのように組織を運営していくかというのは、きちんと考えていかないといけないことです。そうしないと、場当たり的で、どこに向かっていくのかわからないという事になってしまいます。

オットー・ビスマルクと上杉謙信を比較してみる

オットー・フォン・ビスマルク

ドイツを統一に導いた名宰相、鉄血宰相と言う異名を持つ方で

「現下の大問題は言論や多数決によってではなく、鉄と血によって解決される」

といった、有名な言葉を残しています。

対して、

上杉謙信

戦国時代の武将、自らを「毘沙門天」の化身と称した、軍神生涯負け戦なしという、圧倒的な強さを持った武将として知られています。

ビスマルクと上杉謙信、なぜ、この二人を比較することとなるのかというのは、目的達成のために全力を尽くしたビスマルクと、言葉は悪いのですが、何が目的だったのか、結局よくわからなかった上杉謙信といった比較で進められます。

ビスマルクは宰相として何を目的としていたのか?

ビスマルクという人は、プロシアという今のドイツの一地方の国の宰相でした。プロシアというのは、ドイツ語で発音するとプロイセンです。プロシアとプロイセンは同じ国です。混乱しそうですよね。首相になったころのドイツというのは、まだ統一されておらず。いろいろな国がバラバラに乱立している状態でした。

当時、ドイツは、オーストリアを中心とした大ドイツ主義と、プロシアを中心とした小ドイツ主義という、ドイツ統一に向けた方針がぶつかっている状態でした。そんな中で、ビスマルクが目的にしたのは、ドイツの統一です。なんか、織田信長みたいですね。

目的のためには時には意見に耳を塞ぐことも必要

世に衆愚政治という言葉がありますが、「話し合い」というのは以外に万能ではありません。さて、ビスマルク、ドイツ統一に向けて、どのような方針をとったかというと。鉄血政策と呼ばれる、有名なセリフがありますが、「現下の問題(ドイツ統一)は、言論や多数決(話し合い)によってではなく、”鉄と血(戦争)”によってのみ決せられるのである!」という有名な所信演説を行います。

まあ、いろいろ見ていると、なんだかんだビスマルクは戦争ばかりしているのですが、取っ掛かりは、1864年隣国デンマークとの、シュレスウィヒ・ホルシュタイン両州を巡るデンマークとの戦争を、これまた隣国の当時の大国オーストリアと戦争を始めます。無事、デーンマークを打ち破りました!

ここまでは良かったのですが、一緒に戦ったオーストリアと仲間割れをしてしまいます。そして、そんな状況を虎視眈々と狙っていたのは、フランスのナポレオン3世。ヨーロッパというのは地続きですので、力関係というか、バランスの中で生きていく必要があります。信長の野望をゲームでやられた方はおわかりかと思いますが、四方八方に国があると、年中戦をしていないといけなくなるわけです。

来る、1866年6月14日ついに、ビスマルク率いるプロイセンは、オーストリアと開戦します。兵数だけですと、オーストリアのほうが圧倒的に多かったのですが、兵器、編成ともにプロイセンの方が優れていました。

日本の戦争に置き換えると、幕末の、幕府対新政府のような構図です。兵数が多ければいいという訳ではないのです。この、プロイセンとオーストリアの戦争、たった7週間で決着が付き、プロイセンが勝利します。そのため、「七週間戦争」と呼ばれます。

歴史を見渡しても、例を見ないほどの大勝利だったと伝えられているのですが、戦争につきものの、賠償や講和条約の内容は驚くほど軽いものでした。その条件は下記のとおりです。

  • 今後、ドイツ統一問題に干渉せざること。
  • 賠償金は2000万ターラー(現在の日本円で換算すると500億円程度、3年後に起こった普仏戦争の賠償金が5兆円になったことを考えると格安の賠償金であったと言われます。)
  • 領土の割譲はしない。

といった内容でした。どうして、こんなに軽微な講話内容だったのでしょう。ここに、ビスマルクの最終目的が反映されています。そう、ビスマルクの最終目的は「ドイツ統一」

ここでオーストリアに過酷な要求を出してしまうと、オーストリアに恨みを買い、虎視眈々と領土を狙っているフランスとオーストリアに挟まれて、プロイセンはひとたまりもなく、国がなくなってしまうかも知れないのです。この後の普仏戦争において、ナポレオン3世を破り、ビスマルクはドイツ統一に成功します。何が目的だったかを十分にわかっていたので、達成することができた統一になります。

目的を忘れたかのような上杉謙信

上杉謙信と言えば、「毘沙門天」の化身と自らを称した、無敵の「軍神」です。15歳の初陣から49歳で亡くなるまで、戦をすること、実に71回。その戦績は61勝2敗8分と言われていて、この数字は多くの戦国大名のなかでもナンバーワンと言われています。

でも、これだけ勝ち続けていたら、あっという間に京都に上って、天下を統一できたのではないか?という疑問が浮かんでくるわけですが。

上杉謙信の戦を調べていくと、面白いことがわかります。一言でいうと、どこに向かっているのかわからない!

具体的には

  • 越後の国(新潟)を拠点として、国内で5戦。
  • 北条氏の支配している小田原(神奈川)方面に進撃すること43戦。
  • 武田氏が進出してきた信濃(長野)方面に進撃すること6戦。
  • 織田が進出してきた北陸(富山)方面に進撃すること17戦。

まったく、どこに向かっているのか、方向性が定まっていません。

 

これに対して、織田信長がどうだったかというと、生涯68戦中、49勝15敗4分(実は結構負けている)と言われ、上杉謙信と比べれば、勝率は決して高いとは言えないのですが。

織田信長は、目的、方向性が大変明確でした。織田信長の目的は常に京都!天下統一にあったわけで、京都と反対側の徳川家康と同盟を組み、できるだけ、力を京都方面に進出することに注力していきます。

織田信長が、一歩一歩京都に進んでいく間に、上杉謙信は戦には勝つけど、どこに向かっているかわからない戦を続けていってしまったわけです。ひょっとしたら、戦いに明け暮れた上杉謙信の人生も、義に生きたと言えばいい響きなのかも知れません。

でも、違った角度から見ると、ちゃんと目的を見据えないと、目標に届かないから!という教訓を与えてくれる人生と言って良いでしょう。

 

 

 

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