湾岸戦争の原因についてイラク側、アメリカ側からわかりやすくまとめました

近現代史
スポンサーリンク

湾岸戦争の原因についてアメリカ側、イラク側からわかりやすくまとめました

湾岸戦争というのは、ものすごく簡単に説明すると、

1991年1月17日に始まった、アメリカを始めとした多国籍軍と

湾岸戦争前に、隣国のクウェートに侵攻していたイラクとの戦争です。

第一報は、アメリカのCNNの記者が、イラクの首都であるバクダットから

中継するという、前代未聞の戦争であり、

戦争当時は、ゲームのような戦争とか、ニンテンドウォーとか呼ばれた戦争です。

スポンサーリンク

湾岸戦争の原因をイラク側から考えた場合

湾岸戦争に先立つ1990年8月2日、イラク軍は、隣国のクウェートに対して、

兵士10万人と呼ばれる大部隊で、侵攻を開始しました。

クウェートというのは、今では人口400万人を超える国となっておりますが、

当時の人口は約180万人程度の小国でした。

しかしながら、石油資源に恵まれており、また、海の無いイラクからするとペルシャ湾への

抜け道にあたり、隣のイラクからすると、大変魅力的な国に見えたことは想像に

難しくありません。

なぜイラクはクウェートに侵攻したのだろう?

話せば、大変長い話になってくるのですが。

もともと、19世紀において、イラクとクウェートは同じ、オスマン・トルコ帝国の一部に

所属しており、同じ国になっていました。

しかし、中東で悪名を轟かせ、後に中東諸国の様々な戦争の原因を作り出してしまった、

大英帝国、いわゆるイギリスが、このあたりに侵攻してくると、事態が変わってきました。

1913年にイギリスとオスマン・トルコ帝国の間で、協定が結ばれ、クウェートをオスマン・トルコ

から切り離し、イギリスの植民地にしてしまいました。これが、今のクウェートの原型と言えます。

その後、翌年の1914年から始まった第一次世界大戦において、イギリスが属した連合国が、

オスマン・トルコの属した同盟軍に勝利したことにより、現在のイラクもイギリスの支配下に

置いてしまいました。

なんとなく、中東の国々をイギリスの思惑で領土を分断するような話が多いのですが、

こと、イラクとクウェートに関しては、いつ、イギリスの支配下に置かれたかによって

切り離されたことになります。

サダム・フセインの登場とイランイラク戦争

1979年にその後、長いことイラクで権力を掌握することとなる、サダム・フセインがイラクの

大統領として登場します。

このフセイン大統領、昔っからとっても野心家で、大統領に就任した年も、振り返ると悪かった。。

大統領に就任する前年の1978年というのは、中東では大きな革命が起こっています。

そうです、イラン革命です。

イラン革命というのは、ウィキペディアによると

イラン革命は、イラン・パフラヴィー朝において1978年1月に始まった革命である。亡命中であったルーホッラー・ホメイニーを精神的指導者とするイスラム教十二イマーム派(シーア派)の法学者たちを支柱とする国民の革命勢力が、モハンマド・レザー・シャーの専制に反対して、政権を奪取した事件を中心とする政治的・社会的変動をさす。民主主義革命であると同時に、イスラム化を求める反動的回帰でもあった。

とあり、ものすごく簡単に言うと、アメリカ化というか、欧米化していった、イラン・パフラヴィー朝に対して、もっと、イスラム的になろうよとホメイニ氏らが中心となって起こした革命です。

つまり、サダム・フセインがイラクの大統領になったころ、隣のイランは大混乱だったのです。

そして、1980年、野心家のサダム・フセインは、隣国イラクを攻撃します。

こうして、イラン・イラク戦争が始まってしまいました。

このイラン・イラク戦争というのは、別名イライラ戦争とも呼ばれ、なかなか、一方に

決定的な打撃を与えることができずに、最終的に1988年8月に双方ヘトヘトになって

終息しました。

さて、戦争って、たくさんお金がかかるんです。日本も戦争するのに高橋是清外務大臣が

世界中を飛び回って、日露戦争の戦費を調達した話は有名な話ですが。

イラクも、この戦争で多額のお金を使ってしまったのです。その額なんと900億ドルにも

なってしまいました。

隣国のクウェートは、石油が採れて、お金持ちも多い、貿易に不可欠な湾岸の港も持っている

よし、侵攻して、奪い取ってしまおう!という勝手なサダム・フセインの考えが、

侵攻の原因と言われています。

では、お金のないイラクがどうして、侵攻することができるような、

強い軍事力をもったのでしょう。

イラクの軍事力は世界中が育て上げてしまった。。。

ここにも、イラン革命の影響が見え隠れします。

世の中なんでもそうですが、なんでも原因があるものです。

もともと、中東において、イランとイラクは、強国と呼ばれる立ち位置にあり、

東西冷戦と言われる時代、イランはアメリカが援助し、イラクには当時のソ連が援助を

行うという構図になっていました。

そんな時に、起こったイラン革命。。。

イラン革命は、アメリカ化に対する、イスラム世界の反発と言って良い革命です。

アメリカはイランから敵対視されるようになり、イランへの影響力がなくなってしまいました。

革命後のイランの思想を、イスラム教原理主義と呼んだりするのですが、アメリカは

この思想が隣国に広がることに強い警戒心を持っていました。

このため、隣国のイラクに対しては、これまで援助をしていたソ連だけでなく、

アメリカを始めとした西側諸国まで、援助をしだすようになってしまいました。

世界中から、イランに対抗するために、軍事援助を受ける。。。

そりゃ軍事大国になりますよね。。

冷戦が終わった さあ今が侵攻のチャンス、でも結果は違った。。

冷戦が終わると、アメリカとソ連、西側と東側の力の均衡が一時くずれました。

サダム・フセインが狙ったのは、この力の空白期間。

ここで、戦争をはじめれば、アメリカからもソ連からも咎められることなく、

ことがうまく運ぶであろう、とサダム・フセインは考えたのかもしれません。

しかしながら、結果はそうはならず、アメリカもソ連も敵に回し、

西側も東側も敵に回す結果に終わりました。

スポンサーリンク

湾岸戦争と日本の関係について

湾岸戦争は、遠い中東の戦争で、日本には全く関係がなかった。。。

というのは大きな間違いです。

戦争にはお金が掛かります。多額の戦費負担が必要となったアメリカは、

「石油に頼っている日本は、湾岸地域の平和が保たれることによって利益を得るのだから

それなりの負担をして欲しい。」と日本に要求を出してきました。

対して日本が、合計で130億ドルにも及ぶ多額の資金を多国籍軍支援のための支出を

行いました。

戦後、クウェートは支援を行ってくれた国々に対して、名前を上げて感謝する新聞広告を

行いました。

その中には、残念ながら日本の国名は記載がなかったそうです。

この辺りから、日本における国際貢献のあり方についての議論が高まり、「国連PKO協力法」

という法律が成立しました。正式名称は「国際連合平和維持活動等に対する協力に関する法律」

というとっても長い法律です。

その後、この「国連PKO協力法」に基づき、様々な自衛隊の派遣が行われてきましたが、

1992年に行われたカンボジアへのPKO活動においては、自衛隊だけではなく、

警察からも派遣が行われました。

そして高田晴行警部補が、現地の武装勢力に銃撃されて亡くなってしまうという、痛ましい

事件も発生しています。

国際貢献のありかたというのは、今持って、どうあるべきかというのは、議論が定まらない

ところです。

スポンサーリンク

湾岸戦争の原因についてのまとめ

結果論ということになるのかもしれませんが、湾岸戦争は、力を持たせてはいけない

サダム・フセインに世界中が力を貸してしまい。

クウェートに侵攻を始めてから、寄ってたかって、叩き潰したというのが真相ではないでしょうか。

自分の国の都合だけで、あっちの国を援助したり、こっちの国を援助したり、

その結果、力の均衡が崩れたところで、戦争が始まった。

あらためて振り返るとそんな気がします。

ところで、サダム・フセインは湾岸戦争後もしぶとく生き残り、その後はイラク国内の

反乱分子の弾圧に一生懸命になります。

最終的に、サダム・フセインが最後を迎えたのは、2001年9月11日のアメリカ同時多発テロのあとに

湾岸戦争のときのアメリカ大統領である、父ブッシュの息子のブッシュ大統領が「テロとの戦い」を

宣言し、イラクが大量破壊兵器を保有しているという名目で、イラクを攻撃し、2006年12月に

「人道上の罪」で死刑が執行されました。

 

皮肉なことに、サダム・フセインが処刑されたあとも、イラクでの混乱は続いてしまい、

そこからは、IS、いわゆるイスラム国が発生する等、なかなか、イラクは安定した政情を

迎えることができずにいます。

「そうだったのか!現代史」


現代史を振り返るのに必読の書と言っていいでしょう。
この記事を書く際に、大変参考にさせていただいた、池上彰氏の代表作
「そうだったのか!現代史」、大変わかりやすく記載されています。
近現代史
スポンサーリンク
これ良かったオススメです

コメント