2022年のNHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」気になりますよね?
まだ始まっていませんが、楽しみでワクワクしますね。
その中で気になる「鎌倉殿」って誰のことなんでしょうか?
これ気になってる人沢山いるんじゃないですか?
鎌倉殿とは誰のこと?
いったい何を指していて、どんな意味があるのでしょう?
一足お先に徹底リサーチしてみました。
Contents
- 鎌倉殿とは誰のこと?鎌倉殿はなんて読むの?
- 鎌倉殿とは誰のこと?鎌倉殿その意味は何なのか⁉なぜそう呼ばれるようになったのか?
- 鎌倉殿とは誰のこと?鎌倉殿が指す源頼朝を詳しく解説!
- 鎌倉殿とは誰のこと?鎌倉殿が指す鎌倉幕府と征夷大将軍を詳しく解説!
- 鎌倉殿とは誰のこと?鎌倉殿の13人を詳しく解説!
- 鎌倉殿とは誰のこと?鎌倉殿を支えた北条義時(ほうじょうよしとき)
- 鎌倉殿とは誰のこと?鎌倉殿を支えた北条時政(ほうじょうときまさ)
- 鎌倉殿とは誰のこと?鎌倉殿を支えた比企能員(ひき よしかず)
- 鎌倉殿とは誰のこと?鎌倉殿を支えた安達盛長(あだち もりなが)
- 鎌倉殿とは誰のこと?鎌倉殿を支えた和田義盛(わだ よしもり)
- 鎌倉殿とは誰のこと?鎌倉殿を支えた梶原景時(かじわらかげとき)
- 鎌倉殿とは誰のこと?鎌倉殿を支えた三浦義澄(みうら よしずみ)
- 鎌倉殿とは誰のこと?鎌倉殿を支えた 大江広元(おおえのひろもと)
- 鎌倉殿とは誰のこと?鎌倉殿を支えた三善康信(みよし やすのぶ)
- 鎌倉殿とは誰のこと?鎌倉殿を支えた中原親能(なかはら ちかよし)
- 鎌倉殿とは誰のこと?鎌倉殿を支えた二階堂行政(にかいどう ゆきまさ)
- 鎌倉殿とは誰のこと?鎌倉殿を支えた足立遠元(あだち とおもと)
- 鎌倉殿とは誰のこと?鎌倉殿を支えた八田知家(はった ともいえ)
- 鎌倉殿とは誰のこと⁉大河ドラマで話題沸騰‼鎌倉殿と13人の関係は?まとめ
鎌倉殿とは誰のこと?鎌倉殿はなんて読むの?
鎌倉殿とは「かまくらどの」と読み、鎌倉幕府そのものを指す言葉なのです。
もう一つ、鎌倉幕府だけでなく鎌倉幕府初代将軍、源頼朝(みなもとのよりとも)の事も「鎌倉殿」と呼んでいたと言われています。
他にも、源頼朝は鎌倉家・鎌倉流とも呼ばれていました。
平家物語の中でも、鎌倉殿とは源頼朝を指していて、歴史的に源頼朝ととても強く結びついた言葉なのです。
鎌倉殿とは源頼朝と鎌倉幕府を指している言葉だったのです。
幕府とは
「幕府」とは、将軍のいる居所や陣営の事を指しています。
沢山出てきますので覚えておきましょう。
引用: Wikipedia
鎌倉殿とは誰のこと?鎌倉殿その意味は何なのか⁉なぜそう呼ばれるようになったのか?
鎌倉殿が源頼朝と鎌倉幕府を指す言葉だということは分かりましたね。
でも、なぜ「鎌倉殿」と呼ばれるのか?更に謎です…。
そう思ったのは私だけではなかったようです。
こんな質問を見つけました。
質問です
源頼朝はなぜ鎌倉とよばれていたのでしょうか?また源義仲はなぜ木曽殿ですか?知っている人がいたら教えてください。
引用: Yahoo!知恵袋
例えば、長野の親戚のおじさんを「長野のおじさん」と呼ぶように、鎌倉幕府の将軍だから「鎌倉」さんなのです!
更に、頼朝は公卿の地位に就いていたので、居館+殿で鎌倉殿と呼ばれていたのです。
地名で人を示すのは日本の伝統で、会社などでは「〇〇課長」と呼ぶように職名で呼ぶのも伝統です。
昔は人名で呼ぶことはなく、このように職名や地名なんかで個人を指していたのですね。
鎌倉殿とは誰のこと?鎌倉殿が指す源頼朝を詳しく解説!
源頼朝は、平氏と源氏の存在によって混乱していた世の中を平らげて、日本初の武家政権を作り、武士が世の中を動かした鎌倉時代の初代将軍です。
平安時代までは、京都の貴族が政治や文化の中心でしたが、頼朝が鎌倉に幕府を置いたことで、関東地方にも新しい文化や経済の流れが生まれました。
実は、鎌倉幕府という呼び名は江戸時代から定着したもので、鎌倉時代の頃にはただ単に「関東」と呼ばれていたようです。
この後に続く室町時代や江戸時代にいたるまで、長い間、武士が政治をおこなう基礎をつくった、新しい時代を切り開いたすごい人でした。
鎌倉殿とは誰のこと?鎌倉殿が指す鎌倉幕府と征夷大将軍を詳しく解説!
鎌倉幕府とは、【1185年から1333年】まで続いた日本初の幕府、源頼朝が鎌倉(神奈川県)ではじめた武士の政権です。
【1185年】、平氏を滅ぼして、自分の領地に守護(軍事)、地頭(税の取り立て)を置いてその支配を朝廷から認めてもらいました。
そして【1192年】、頼朝は征夷大将軍(せいいたいしょうぐん)に任命される事になります。
【1199年】に頼朝が亡くなり、息子頼家が2代目将軍となるのですが、18歳と若くして家督を継承したため、従来の習慣を無視した独裁政治を始めてしまいます。
それを抑えるために13人の有力者が合議制(源頼朝の死後に発足した鎌倉幕府の集団指導体制)を始めるのです。
その合議制の中心であったのが、頼家の母の北条政子(ほうじょうまさこ)の実父の北条時政。
北条氏は自分と対立した有力な御家人(ごけにん)を次々滅ぼし、幕府の事実上のトップである執権(しっけん)になって鎌倉幕府の政権を握り、北条氏が実質的な幕府の支配者となるのです。
しかし、鎌倉時代後半になると、莫大な戦費のおかげで貧しくなった御家人や武士が不満を持ち、鎌倉幕府を滅亡へ追い込むのです。
鎌倉幕府が置かれた時代は、源氏の時代として始まり、北条氏の時代として終わったのです。
他にも、鎌倉時代は文化も華美なものから素朴で実用性のあるものに変わり、平安末期の混乱の時代から人々を救うため、さまざまな仏教宗派が生まれ、仏教が武士や庶民の間にも浸透しはじめたのもこの鎌倉時代の特徴です。
引用: Wikipedia
鎌倉幕府は1185年?1192年?どちらが正しいの?
鎌倉幕府の成立は、【1192年】として教わりましたよね?
ですが、現在は【1185年】の方が鎌倉幕府の成立としてふさわしいということになっています。
鎌倉幕府のはじまりは、源頼朝が征夷大将軍に就任した【1192年】とされていましたが、【1192年】は源頼朝が征夷大将軍に任じられた年というだけで、鎌倉幕府成立の年では無いのです。
平氏が壇ノ浦の合戦によって滅亡し、源頼朝が守護、地頭を置いた【1185年】の方が鎌倉幕府の成立としてふさわしいとされて、今現在、鎌倉幕府成立は【1185年】と言われています。
鎌倉幕府の成立の第一の根拠となっていた源頼朝の征夷大将軍就任が今では単なる結果論という形になっているのです。
鎌倉殿とは誰のこと?鎌倉殿の13人を詳しく解説!
鎌倉殿と呼ばれる鎌倉幕府や源頼朝について分かってきましたね。
そこで、今回気になる「鎌倉殿とは誰のこと?」の鎌倉殿を調べるうちに、源頼朝と一緒に鎌倉幕府を作り、天下取りを支えて、息子の頼家の暴走を止めた有力者達が出てきました。
先ほど出てきた、【13人】の有力者達です。
鎌倉殿の13人は、この有力者の中の北条時政の息子、「北条義時」にスポットを当てたドラマになるようです。
もちろんドラマなので、空想部分や事実との違いがあるかもしれませんが、【13人】について知っておけば、よりドラマが楽しくなりそうな気がしませんか?
この【13人】が勢力争いの中で次々と脱落していくなか、最後に残った北条義時。
いちばん若かった彼が、最終的に鎌倉幕府を引っ張っていく最高権力者になる。
そんな歴史上の人物、鎌倉殿の【13人】を調べてみました。
鎌倉殿とは誰のこと?鎌倉殿を支えた北条義時(ほうじょうよしとき)
北条時政の四男で北条政子の弟、鎌倉幕府の2代執権、伊豆の豪族から武家の頂点にまで成り上がった人物です。
源頼朝は義時のことを、他日必ず子孫の補佐たらん(いつか必ず私の子孫の補佐になるであろう)、と言っていたとも伝えられています。
ですが、実は二代将軍頼家や三代将軍実朝を暗殺したのでは?との疑惑のある人物で、同僚(13人の有力者)を次々と陥れ、実父の時政まで幕府から追放したとされる、歴史上ではものすごい悪人とされている人なのです。
北条一族は代々執権として鎌倉幕府を支えることになるのですから、頼朝からとても信頼されていたはずなのに、源頼家暗殺、その黒幕は義時だったのか?真実は闇の中です。
大河ドラマでは、主役を悪人にすることはなかなか無いので、「鎌倉殿の13人」では義時をどう描くのか?とても楽しみですね!
北条義時を演じるのが「小栗旬」さん。
鎌倉殿の13人北条義時ゆかりの地
覚園寺
北条義時が建立した大蔵薬師堂を前身に、1296年(永仁四年)九代執権北条貞時が元寇襲来が再び起こらないことを祈念して、寺に改めました。
URL:鎌倉 覚園寺
【鎌倉歴史散歩】薬師堂ヶ谷の最奥にある覚園寺は、北条義時が戌神のお告げを受けて建てた薬師堂が前身。義時はその御加護で私の暗殺に巻き込まれるのを免れたとされている。現在の伽藍は足利尊氏の再建だが、鎌倉時代の風情を残す貴重な寺だ。pic.twitter.com/s9RIAO5Sy7
— 源実朝 (@m_sanetomo) October 8, 2017
鎌倉殿とは誰のこと?鎌倉殿を支えた北条時政(ほうじょうときまさ)
源頼朝の妻政子と北条義時の父で、伊豆の豪族で、源頼朝が兵を挙げたのを助け、鎌倉幕府の成立に力を貸した人物です。
鎌倉殿を助けて政務(政治上の事務)を統一して治めていました。
北条時政は、頼朝の死後、頼朝の長男が2代将軍に就くと、鎌倉幕府の初代執権(政治の権力を握る事)という地位につき、執権政治のもとをつくったのです。
執権職は北条氏が独占し、家系を継承する各世代の後継者が受け継いでいきました。
当初から大きな勢力を持っていましたが、三代将軍源実朝暗殺後は、幕府のほとんどの実権を握り、政務を行っていました。
今風で言うならば、「社長(頼朝の長男)がいるのに専務(北条時政)が会社の権限や業務全般を仕切っていた」という状態、影の権力者たっだ人物です。
しかし将軍職は名目的に公家や皇族を京から迎える形だったため、北条氏は形式的服従を貫いていたようです。
北条時政を演じるのが「坂東彌十郎」さん。
鎌倉殿の13人北条時政ゆかりの地
成福寺
北条時政邸の一部だったと考えられ、源頼朝と北条政子のために建てられた別亭があった場所ともいわれている。
URL:高野山真言宗 吉井山 成福寺
伊豆市に向かう途中、韮山の成福寺(じょうふくじ)と願成就院により「一匹の鯨」で昼食=R 35ラーメン^_^
成福寺に北条時宗のお墓があるのは知らなかった。成福寺の辺りに足利幕府の堀越公方の邸があったというが願成就院に北条時政は勿論足利茶々丸のお墓もあった。 pic.twitter.com/NYpDd4jjdo— いとうけいすけ(フリーアナウンサー) (@ksuke813) April 26, 2021
鎌倉殿とは誰のこと?鎌倉殿を支えた比企能員(ひき よしかず)
比企家は、頼朝が14歳で伊豆に流されて34歳で旗揚げするまで陰ながら面倒をみていた一族です。
元々は、比企遠宗(能員の養父)が源義朝(頼朝の父)の家来で、その妻が比企の尼で、頼朝が生まれた時乳母となります。
平家ににらまれていたので村人も近づかない、そういう状況下で、比企の尼は一人で頼朝のめんどうを見続けたようです。
そのような関係から、鎌倉幕府の中で北条氏と地位を争うまで出世していきます。
北条時政との対立によって、比企一族は1203年(建仁3年)北条時政率いる北条氏によって妙本寺のある比企ヶ谷で滅ぼされてしまうのです。
北条氏の企みが成功しなければ、比企能員が幕府の枢要な地位に就いた可能性があったとされていて、歴史や小説では、比企の乱は、悪人である比企氏が鎌倉幕府を乗っ取ろうとして起こしたとして描かれています。
ですが、実際は北条氏にだまされて滅亡したというのが真実で、比企氏については、あまり記録も残されておらず、ある意味で抹殺されたような気配まであります。
この辺りをどう描いていくのか楽しみですね。
比企能員を演じるのが「佐藤二郎」さん。
鎌倉殿の13人比企能員ゆかりの地
妙本寺 比企能員の屋敷で、比企一族が、北条氏を中心とする大軍に攻められ、滅ぼされた地でもあります。その後、比企大学三郎能本(よしもと)が日蓮のためと比企一族の霊を弔(とむら)うためお堂を建たのが始まりとされています。 URL:日蓮宗 霊蹟本山 比企谷 妙本寺
#鎌倉殿の13人
佐藤二朗さん演じる比企能員の邸跡、妙本寺(鎌倉)。能員は、頼朝を支えた乳母・比企尼の甥で、比企尼の養子となります。
能員の娘は頼家に嫁いで長男・一幡を産むなど、比企氏は権勢を強めますが、やがて北条家と対立していきます。
4枚目は比企一族の供養塔。 pic.twitter.com/hUoz3uelMB
— 小栗さくら@講談社『余烈』発売中 (@oguri_sakura) November 16, 2020
鎌倉殿とは誰のこと?鎌倉殿を支えた安達盛長(あだち もりなが)
源頼朝が伊豆国の蛭ヶ小島の流人だった頃、頼朝に従者として仕えていた安達盛長。
盛長は、北条氏ほどの政治力や実力がなかったので、北条氏と結託する事で鎌倉幕府内での地位を高めていったようです。
特に秀でている所が何もない安達氏が、北条氏に次ぐ有力御家人となれたのは、北条氏と同盟していたおかげと言われています。
源頼朝と北条政子との間をとりもったのも、北条家と次々と婚姻関係を結んだのも、北条氏に取り入る為だったのではないでしょうか?
非常に強力な同盟関係を築いた両家は、互いに力を合わせる事で幕府内で実力を強めていったのですが、当然そこまで親密な両家ですから、他人の目からは盛長は北条と同じと見られても不思議は無かったのです。
結果、安達氏は北条氏と共に滅亡の道を歩み、幕府の滅亡と同時に歴史の表舞台から姿を消して行きました。
安達盛長を演じるのが「野添義弘」さん。
鎌倉殿の13人安達盛長ゆかりの地
安達盛長邸跡
【歴史さんぽ】
鎌倉文学館近くにある甘縄神明神社は、710年(和銅3)行基が草創したと伝わるとても古い神社。
『吾妻鏡』によれば北条政子や実朝も参拝したそう。
境内の階段を上ると、清々しい空間に美しい拝殿や本殿が現れます。
後ろを振り返れば、長谷のまち並みと穏やかな相模湾が望めます♪ pic.twitter.com/fwNXq7HEi9— 【鎌倉市】文化情報 (@kamakura_reki) February 4, 2020
鎌倉殿とは誰のこと?鎌倉殿を支えた和田義盛(わだ よしもり)
杉本義宗の長男として誕生した、三浦一族の中の一人で、源平合戦初期の頃から源頼朝に尽くした臣下でした。
弓の名手として知られていて、当時の武士の武芸本業が騎射で、これにとても長けていました。
平家軍に敗れた源頼朝や三浦一族ですが、その中でも和田義盛は「頼朝様が勝った暁には、どうか私を侍所(さむらいどころ〈軍事警察の組織〉)にしてください」とお願いしたと言われています。
富士川の戦いで平家軍に大勝利すると、源頼朝は和田義盛が待ち望んでいた侍所長官に抜擢するのです。
実戦でそれを示し、実際に侍所長官に抜擢されたのですから、義盛のはとても強い武将たっだのですね。
侍所とは、幕府内での武士たちの人事管理をする機関、そこの最高責任者になった人物なのです。
和田義盛を演じるのが「横田栄司」さん。
鎌倉殿の13人和田義盛ゆかりの地
和田義盛本拠地跡
御家人のお屋敷訪問シリーズ②(やってません…)、和田義盛の居館跡、#和田城址 。遺構は何にもありませんが、当時も丘の上に畑に囲まれるようにあったっぽい雰囲気は今も感じられそう。 pic.twitter.com/w2qYjpOrb7
— やゆこ (@ygyr) May 27, 2017
鎌倉殿とは誰のこと?鎌倉殿を支えた梶原景時(かじわらかげとき)
石橋山の戦いで敗れて逃亡する源頼朝を助けた、梶原景時は頼朝にとって命の恩人とも言えるとても重要な人物です。
武家政権を樹立させたい頼朝にとって、景時はなくてはならない存在であった一方、御家人の間ではとても恨まれていた人物とされています。
歴史上や平家物語でも悪人と描かれていることが多いですが、頼朝には重要な人物だっただけに、周りから嫉妬されていただけなのかもしれませんね。
勇猛で文武両道の良将という一面もあり、景時もどう描かれるのか楽しみな人物です。
梶原景時を演じるのが「中村 獅童」さん。
鎌倉殿の13人梶原景時ゆかりの地
興禅寺 興禅寺は、頼朝の家臣で鎌倉幕府の侍所の別当として権勢を誇った梶原景時が、1174年に菩提寺として建てた寺で、興禅寺の東側には羽黒城跡が残されています。 [googlemaps https://www.google.com/maps/embed?pb=!1m18!1m12!1m3!1d507.9242206285393!2d136.94923854830512!3d35.353047755410266!2m3!1f0!2f0!3f0!3m2!1i1024!2i768!4f13.1!3m3!1m2!1s0x60030db7cba62d05%3A0x92a0a4ef3960dde4!2z44CSNDg0LTA4OTQg5oSb55-l55yM54qs5bGx5biC57696buS5Z-O5bGL5pW377yR77yW!5e1!3m2!1sja!2sjp!4v1623288539431!5m2!1sja!2sjp&w=600&h=450]
愛知県犬山市にある梶原景時 創建の「興禅寺」について書きました↓https://t.co/fUa1QrddWG
梶原景時は石橋山合戦では平家方の大庭景親軍にいましたが、敗北して隠れていた頼朝を逃し、その後は源頼朝に仕えた人物です。興禅寺には景時夫婦や梶原一族の供養塔も。#源平史蹟紹介 pic.twitter.com/z2igrYMgvq
— -あゆみ-魑魅魍魎 (@usagiwasabi) April 17, 2020
鎌倉殿とは誰のこと?鎌倉殿を支えた三浦義澄(みうら よしずみ)
源平合戦や奥州藤原氏との戦いを乗り越えてきた義澄は、頼朝の厚い信頼を獲得していました。
それをあらわすエピソードとして、頼朝が征夷大将軍に任命された際、「朝廷からの任命書を受け取る役割」を任せられたことが挙げられます。
このことからも義澄が頼朝配下の武士団のなかでも特に厚遇されていたことがわかりますね。
さらに、頼朝亡きあと、宿老のひとりとして「十三人の合議制」のメンバーに抜擢されます。
頼朝がいなくなったあとの鎌倉幕府でも、義澄の地位はとても高かったといえるでしょう。
三浦義澄を演じるのが「佐藤B作 」さん。
鎌倉殿の13人三浦義澄ゆかりの地
衣笠城跡
三浦半島を治めていた三浦一族が居城とした中世の山城です。当時の城がは残っていませんが、衣笠城跡は鎌倉時代の幕開けを感じさせる貴重な史跡として、1966年(昭和41年)に、神奈川県横須賀市の文化財として指定されました。
URL:衣笠城跡
[googlemaps https://www.google.com/maps/embed?pb=!1m18!1m12!1m3!1d2034.3964008764665!2d139.65389129238216!3d35.245595661249894!2m3!1f0!2f0!3f0!3m2!1i1024!2i768!4f13.1!3m3!1m2!1s0x60183fa519f32f41%3A0xbba75de1f305deb0!2z6KGj56yg5Z-O5Z2A!5e1!3m2!1sja!2sjp!4v1623289453039!5m2!1sja!2sjp&w=600&h=450]
鎌倉殿とは誰のこと?鎌倉殿を支えた 大江広元(おおえのひろもと)
大江広元は身分の低い貴族の家系でした。
頼朝から声をかけられ、文書管理や訴訟・財務を扱う機関、公文所別当(長官に相当する地位)に就任しました。
1185年に源頼朝が従二位に任じられ公卿になると公文所は政所と名前を改め、いずれにしても大江広元が政所の初代別当となります。
鎌倉幕府の将軍に次ぐナンバー2といえば執権の北条氏ですが、将軍の次に朝廷からの官位が高くて一目置かれる存在だったのが大江広元です。
権力闘争で有力御家人が次々と失脚していくなか、大江広元はうまく生き延びていきます。
頭の良かった大江広元は「頭脳で乱世を生き抜く官僚」とされています。
大江広元を演じるのが「栗原英雄」さん。
鎌倉殿の13人大江広元ゆかりの地
大江広元屋敷跡 大江広元屋敷跡、頼朝の片腕として時代を切り開いた政治家です。 URL:大江広元屋敷跡 [googlemaps https://www.google.com/maps/embed?pb=!1m18!1m12!1m3!1d1016.2707894486581!2d139.57772278813954!3d35.31945589302428!2m3!1f0!2f0!3f0!3m2!1i1024!2i768!4f13.1!3m3!1m2!1s0x601844289086bb47%3A0x704712f593a0fbf!2z5aSn5rGf5buj5YWD6YK45Z2A56KR!5e1!3m2!1sja!2sjp!4v1623288450199!5m2!1sja!2sjp&w=600&h=450]
鎌倉殿とは誰のこと?鎌倉殿を支えた三善康信(みよし やすのぶ)
三善康信(三善善信入道)は有能な役人として知られていたようです。
京都からスカウトされて鎌倉にやってきた公家と共に、事実上、幕府の組織を作り上げた人物です。
鎌倉幕府の問注所(もんちゅうじょ)執事と言うのは、訴訟問題を処理する機関で、今でいえば裁判所のようなところです。
鎌倉幕府が成立した当初は、問注所は訴訟の受付窓口のような感じで、判断は、源頼朝が行っていました。
文字すらロクに読むことができなかった関東の武士たちに代わり、事務処理を迅速・円滑に行ったのが、問注所の責任者である、官僚の三善康信なのです。
鎌倉幕府の基礎を固めたほか、朝廷対策においても手腕を振るいました。
三善康信を演じるのが「小林 隆」さん。
鎌倉殿の13人三善康信ゆかりの地
問注所跡
政治を司る政所に続いて裁判を担当する問注所を設置しました。当初は頼朝の屋敷内にあったのですが、第2代将軍源頼家の時代、訴訟が増えるに従ってこの地に移りました。
[googlemaps https://www.google.com/maps/embed?pb=!1m18!1m12!1m3!1d1016.2906301913852!2d139.54744706299763!3d35.31787715732331!2m3!1f0!2f0!3f0!3m2!1i1024!2i768!4f13.1!3m3!1m2!1s0x601845e9f932992b%3A0x4154edfde55ba6f1!2z5ZWP5rOo5omA6Leh5Zyw!5e1!3m2!1sja!2sjp!4v1623289118857!5m2!1sja!2sjp&w=600&h=450]
鎌倉殿とは誰のこと?鎌倉殿を支えた中原親能(なかはら ちかよし)
中原親能は、鎌倉幕府の草創期に源頼朝に招かれて下向した公家出身の御家人で、政所別当を務めた大江広元の兄なのです。
親能は、斎院次官の公職にありながら頼朝と連絡をとり、京都で反平家の活動を行い、逮捕命令が出されると京都を脱出し鎌倉に下り、頼朝の有力なブレーンとなりました。
一説には、頼朝が伊豆国の流人の身の頃から親交があって、頼朝が挙兵する際に、鎌倉に下って頼朝の側近となったともいわれるがどちらが本当かは分かりません。
実務官吏(役人)として頼朝に重用され、平家追討戦や奥州合戦に従軍したこともあり、武人的な面も持ち合わせています。
朝廷との交渉役として頻繁に京と鎌倉を行き来して、鎌倉幕府では、軍事・行政を補佐し、京都守護・政所公事奉行などの重職を任命されて勤めていた人物です。
中原親能を演じるキャストはまだ決定していません。
鎌倉殿の13人中原親能ゆかりの地
石山寺
中原親能は頼朝の命により山城国和束における謀反人を追討する際、石山寺に参詣して毘沙門天に戦勝を祈願し勝利を収めたと言われています。
その報恩のため、親能は勝南院を建立し、妻の亀谷禅尼は剃髪後に石山寺に住して宝塔院を建立して、大日如来の胎内に頼朝の髪を収めて日々勤行したのだと伝えられています。
URL:大本山 石山寺 公式ホームページ (ishiyamadera.or.jp)
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鎌倉殿とは誰のこと?鎌倉殿を支えた二階堂行政(にかいどう ゆきまさ)
源頼朝の母の叔母にあたり、鎌倉の二階堂に住んでいて、地名を苗字とした二階堂氏の始祖(家系の最初の人)。
1192年に永福寺が建立されたのですが、頼朝が永福寺の建設工事の様子を見るため二階堂行政の屋敷に泊まったとも言われています。
社寺などの造営をつかさどる永福寺の造営奉行に任じられていた人物で、幕府に新たに設置される公文所(のちの政所)の上棟式を三善康信と担当していたとされます。
大江広元が別当に任じられ、上京で不在がちな大江広元に代わって幕府の一切の文書発給実務にかかわっていた人物です。
二階堂行政を演じるキャストはまだ決定していません。
鎌倉殿の13人二階堂行政ゆかりの地
永福寺 源頼朝が奥州平泉の中尊寺、毛越寺、無量光院などを真似して建てた寺院で、鶴岡八幡宮・勝長寿院とともに頼朝の三大寺院と呼ばれていました。 二階建ての仏堂であった事から二階堂とも称されました。 URL:永福寺跡 - Wikipedia [googlemaps https://www.google.com/maps/embed?pb=!1m18!1m12!1m3!1d4064.6558371094743!2d139.56555925115558!3d35.32795535677538!2m3!1f0!2f0!3f0!3m2!1i1024!2i768!4f13.1!3m3!1m2!1s0x601845cb23f24429%3A0x35fd926ab1117098!2z5rC456aP5a-66Leh!5e1!3m2!1sja!2sjp!4v1623289930198!5m2!1sja!2sjp&w=600&h=450]
鎌倉殿とは誰のこと?鎌倉殿を支えた足立遠元(あだち とおもと)
武蔵国足立郡を本拠とした豪族だった、足立遠元。
幕府に公文所が設置されると、行政は中原親能・足立遠元・中原秋家・藤原邦通らとともに寄人(庶務・執筆を司る立場)に任命されました。
軍事以外でも頼朝に認められ、京都からの重要な客人の席にも登場している人物なのです。
足立遠元を演じるキャストはまだ決定していません。
鎌倉殿の13人足立遠元ゆかりの地
足立遠元館跡
本拠をどこに置いていたのかは不明だが、桶川市はその推定地の一つで、桶川市総合福祉センター地内には「伝足立右馬允遠元館跡」の石碑が建てられている。
URL:足立遠元館
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鎌倉殿とは誰のこと?鎌倉殿を支えた八田知家(はった ともいえ)
源頼朝の乳母の一人であった寒河尼は知家の姉妹という縁で、頼朝が挙兵すると、早くから頼朝のもとに出向いた人物。
常陸国八田(現在の筑西市)を本拠地とし、八田武者所と名乗った武将で、義朝から実朝まで源氏4代に仕えた鎌倉幕府の御家人です。
鎌倉幕府の十三人の合議制の一人で、小田氏の始祖(家系の最初の人)であり小田城の築城者です。
八田知家演じるキャストはまだ決定していません。
鎌倉殿の13人八田知家ゆかりの地
小田城跡 小田城は、常陸国筑波郡小田邑(現在のつくば市小田)を本拠とした小田氏十五代の居城で、小田氏の祖八田知家が1185年(文治元年)に築いたのだと伝えられています。 URL:小田城 - Wikipedia [googlemaps https://www.google.com/maps/embed?pb=!1m18!1m12!1m3!1d4022.8528613766157!2d140.10821376205166!3d36.15102252497262!2m3!1f0!2f0!3f0!3m2!1i1024!2i768!4f13.1!3m3!1m2!1s0x60220ed7651e964d%3A0xf42d25fabebb6abd!2z5bCP55Sw5Z-O6Leh5YWs5ZyS!5e1!3m2!1sja!2sjp!4v1623291069736!5m2!1sja!2sjp&w=600&h=450]
鎌倉殿とは誰のこと⁉大河ドラマで話題沸騰‼鎌倉殿と13人の関係は?まとめ
- 鎌倉殿とは誰のこと?鎌倉殿はかまくらどのと読みます。
- 鎌倉殿とは誰のこと?鎌倉殿その意味は「居館+殿」で、鎌倉殿なのです。
- 鎌倉殿とは誰のこと?鎌倉殿が指す源頼朝は鎌倉時代の初代将軍でした。
- 鎌倉殿とは誰のこと?鎌倉殿が指す鎌倉幕府は日本で初めての武士の政権でした。
- 鎌倉殿とは誰のこと?鎌倉殿と13人を詳しく解説!
今回調べてみた一番の感想は、歴史的な書物やSNSに記事を書く人、その人によって「受け取り方が全然違う」事でした。
例えば、北条義時なんかは歴史的書物では、源頼朝の信頼厚く鎌倉幕府に貢献した人物、とされていますが、実際は親や同僚を陥れる極悪人のようだったし、その人の地元の観光協会のような所ではどこも褒めたたえて書かれています。
どれが正しくて、どれが間違っているかは正直分かりませんでした。
ですが、歴史はそれが良い所なのかもしれないとも思いました。
想像して夢を膨らませて、物語を自分なりに感じれば良いのです。
私の感想は、鎌倉殿の時代は知れば知るほどドロドロしていて、今の世の中の人たちより、良い意味で「素直で正直」な人たちなんだと思いました。
味方になったり、敵になったり、寝返ったり、裏切ったり…。
でも、そこが面白い所なんですよね!
ドラマを楽しんだり、ゆかりの地散策したりする時に、この情報も頭の片隅に思い出してみて下さいね!