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鎌倉殿の13人とは誰?あらすじや原作はどうなっている?【大河ドラマ2022】

2022年の大河ドラマが発表されましたね。題名は「鎌倉殿の13人」、
脚本は三谷幸喜さん、主演は小栗旬さん。
三谷幸喜さんの脚本は、「新選組!」「真田丸」に続いて3度目。「新選組!」「真田丸」ともとっても面白かったので、「鎌倉殿の13人」も期待してしまいます。

ところで、「鎌倉殿の13人」の13人って誰のことを言うんでしょう。
実は、ここで言う13人というのは、歴史上の人物がわかっていますのでまとめてみました。

 

鎌倉殿の13人 13人とは誰のこと?

主人公は鎌倉幕府2代目執権「北条義時」。将軍源頼朝の正室北条政子の弟ですので、鎌倉幕府の権力の中枢にいた方です。
まず、ここで言う鎌倉殿というのは、将軍源頼朝のことを指します。頼朝は若くして、落馬による怪我が原因で亡くなったと言われていますが、源頼朝の死後に発足した鎌倉幕府の集団指導体制を一般に十三人の合議制(じゅうさんにんのごうぎせい)と呼ばれており、その後、頼朝を支えた13人の家臣団が血で血を洗う権力闘争を繰り広げます。

最終的に権力を掌握したのが、最も若かった、北条義時であったと言われています。

それでは、その13人の家臣団について見ていきましょう。

 

北条義時(ほうじょうよしとき)大河ドラマの主人公 上皇3人を島流しに

大河ドラマの主人公「鎌倉殿の13人」は、この北条義時を中心に描かれて行くこととなりますが、元号が令和になり、先の天皇陛下は退位され上皇というお立場になられましたが、

その上皇3人を島流しにするという、歴史上、結構とんでもないことをやっています。

ウィキペディアに北条義時に滅ぼされた御家人という、すごい箇所があるので、ご紹介すると

  • 1200年 梶原景時 族滅
  • 1201年 城長茂  族滅
  • 1203年 比企能員 族滅
  • 1205年 畠山重忠 敗死
  • 1213年 和田義盛 敗死

と記載があります。えげつない権力闘争があったことが想像できますね。なんだか、「鎌倉殿の13人」は、毎週、誰かが滅ぼされるという、とんでもないドラマになってしまうかも知れません?

後鳥羽上皇による承久の乱の後、3年後に、お亡くなりになっています。面白いことに、明治時代の天皇制国家においては皇室絶対の視点から同情の余地の無い逆臣で不遜の人として多くの筆誅が加えられたと言われているのですが、

NHKさん、よくも、こんな人を主人公にしましたね。調べてみるとわかる面白いこともあるものです。

 

和田義盛(わだ よしもり)弓の名手、武勇にて御家人の尊敬を受ける人物

かなり、早い時期からの、源頼朝の家臣に当たります。

三浦氏の一族で源頼朝の挙兵に参加。鎌倉に頼朝の初期武家政権がつくられると初代侍所別当に任じられています。治承・寿永の乱では源範頼の軍奉行となり、山陽道を遠征し九州に渡り、平家の背後を遮断した。平家滅亡後は奥州合戦に従軍して武功を立てた。

頼朝の死後、梶原景時の変での景時弾劾追放では中心的な役割を果たし、比企能員の変や畠山重忠の乱などの御家人の乱では北条氏に与した。しかし、2代執権・北条義時の挑発を受けて挙兵に追い込まれ、幕府軍を相手に鎌倉で戦うが敗死し、和田一族も滅亡した(和田合戦)。館は若宮大路にあった。

そうです、大河ドラマの主人公である、北条義時の挑発を受けて、最後は敗死してしまうんです。北条義時が追い落とした一人目の家臣です。

大江広元(おおえ の ひろもと)初めは朝廷に仕えていた下級貴族

朝廷に仕えていた方が、源頼朝の家来となって、鎌倉幕府の創設に尽力した。どういう経緯があって、頼朝の家来になったかは、大変興味があるところですが、きっと、大河ドラマでもきちんと描かれていくのでしょう。

鎌倉幕府の政所初代別当を務め、幕府創設に貢献した方です。別当というのは、鎌倉幕府における行政機関の長官を指します。

幕府創設時には、大変重要なポジションを占めていた方ということになりますね。78歳までご存命であったとされ、当時としては大変長生きをされた方です。この方がナレーションなんてポジションでも、面白いかも知れませんね。

 

三善康信(みよし の やすのぶ)頼朝の挙兵に大きな役割を果たす

若い頃の源頼朝が伊豆に島流しになっていたというのは、よく知られた話ですが。その頃、京都の状況を月に3度、頼朝に伝えていたのが、この三好康信です。鎌倉幕府では、初代問注所執事(長官)として裁判事務の責任者を務めました。承久の乱の後まで存命し、天寿を全うされています。

北条時政(ほうじょうときまさ)北条政子の父、鎌倉幕府の初代執権

元々は、伊豆に島流しになった源頼朝の監視役でしたので、どうして、初代執権になったかというのも、大河ドラマの見どころになりそうですが、なんと言っても娘の政子が、頼朝の正妻に座ってしまうのですから、味方しないわけにもいかなかったんでしょうね。

それだけの地位にあった北条時政ですが、源頼朝死後、3代将軍の実朝の殺害を企て、失敗に終わり、最後は、幕府内で完全に孤立無援になってしまい、出家。その翌日には、鎌倉から追放されて、伊豆国の北条に隠居させられることとなってしまっています。

とはいえ、大江広元と同様に78歳まで存命であったとされ、天寿を全うしています。

 

梶原景時(かじわら かげとき)義経を陥れる讒言をした大悪人と言われているが?

源義経は、頼朝の弟で、勧進帳でも知られた悲劇のヒーローとして、過去には大河ドラマにも描かれたことがあり、日本人には人気のある歴史上の人物かと思いますが、

この義経と対立し、諫言によって死に追いやったのが、梶原景時と言われています。しかしながら、将軍頼朝の信任厚く、都の貴族からは「一ノ郎党」「鎌倉ノ本体ノ武士」と称されていたとも言われ、その評価は分かれるところです。

鎌倉幕府では頼朝の寵臣として権勢を振るったが、頼朝の死後に追放され一族とともに滅ぼされたと言われています。

比企能員(ひき よしかず)北条氏と対立し一族滅亡に

歴史上の人物の中には、血縁関係から、歴史に名を残している場合が結構ありますが、この方も、その一例かも知れません。

源頼朝の乳母である比企尼の甥で、のちに養子となる。比企尼の縁から鎌倉幕府二代将軍・源頼家の乳母父となり、娘の若狭局が頼家の側室となって嫡子一幡を産んだ事から権勢を強めたが、能員の台頭を恐れた北条時政との対立により比企能員の変(比企の乱)が起こり、比企一族は滅亡した。

この方も、北条氏に滅ぼされてしまった方なんですね。恐るべし北条氏。

 

安達盛長(あだち もりなが)頼朝と北条政子の間を取り持った?

この人がいなかったら、源頼朝と北条政子は結婚していなかったかもしれない。そう考えると、結構、歴史上の重要人物になるわけですが。ウィキペディアには下記のような記載があります。

源頼朝の乳母である比企尼の長女・丹後内侍を妻としており、頼朝が伊豆の流人であった頃から仕える。苗字は兄である藤原遠兼の所領である武蔵国足立郡に因んで足立氏としていた。 妻がかつて宮中で女房を務めていた事から、藤原邦通を頼朝に推挙するなど京に知人が多く、京都の情勢を頼朝に伝えていたと言われている。また『曽我物語』によると、頼朝と北条政子の間を取り持ったのは盛長とされる。

66歳でお亡くなりになるまで、生涯官職には就くことがなかったと言われています。それでも、頼朝の信認は厚かったといいますから、立派な方だったのかも知れませんね。

 

二階堂行政(にかいどう ゆきまさ)身分は公家 あれっ武士じゃないの?

鎌倉時代と言えば、武士の時代の幕開け、活躍されたのは、武士の方ばかりかと思っておりましたがたまには、身分が公家の方もおられるようです。

家系は藤原南家乙麻呂流で父は工藤行遠、母は源頼朝の外祖父で熱田大宮司・藤原季範の妹で、その関係から源頼朝に登用されたと見られているが、二階堂行政は公家、高家であり、御家人にはなってはいないが、別当として朝廷や幕府に対して絶大な影響力が有ったことは事実である。

足立遠元(あだち とおもと)一世代前に活躍

ウィキペディアによると、平治の乱で源義朝の陣に従い、右馬允に任官し、源義平率いる17騎の一人として戦ったとありますので、鎌倉時代が始まった頃には、結構な高齢でいらっしゃったであろうことは間違いなさそうです。

幅広い縁戚関係を築き、娘の1人は院近臣の藤原光能に嫁ぎ、京都権門とも深い繋がりを有していた。また、別の娘は畠山重忠および北条時房にそれぞれ嫁して、男子を儲けている。武士出身でありながら公文所寄人に選ばれるなど、坂東武士の中にあって文官的素養を持つ人物であった。

と言われていますので、荒武者揃いの鎌倉幕府の中でも、ちょっと異彩を放った方かも知れませんね。

中原親能(なかはら の ちかよし)この方も公家の出身です

今まで、鎌倉幕府というのは、武士の方ばかりなのかと思っていましたが、調べてみると、公家出身の方も、ちらほらおられるようです。幕府といった、政治組織になると、戦だけやっているわけにもいかないので、公家的素養が重宝される部分が多分にあったのかもしれませんね。

文治2年(1186年)に誕生した頼朝の次女・三幡の乳父となり、正治元年(1199年)6月25日、三幡が危篤となると京から鎌倉へ駆け戻り、30日の死去にともない出家し寂忍と称した。

源頼朝から始まる、鎌倉幕府の将軍家は、身内同士の抗争で、どんどんお亡くなりになってしまうわけですが、ここにある、頼朝の次女・三幡も、亡くなったのは若干14歳。

病没とのことですが、この時代、長生きをするというのは大変なことだったのかも知れませんね。

 

三浦義澄(みうら よしずみ)名門三浦氏の頭領

神奈川県に三浦市というところがありますが、三浦というのは、この三浦氏から来ています。

義澄は千葉常胤、上総広常、土肥実平らと共に頼朝の宿老となり、その後も一ノ谷の戦いや壇ノ浦の戦い、奥州合戦に参戦して武功を挙げる。建久元年(1190年)に頼朝が上洛した際、右近衛大将拝賀の布衣侍7人の内に選ばれて参院の供奉をした[注釈 2]。さらに、これまでの勲功として頼朝に御家人10人の成功推挙が与えられた時、その1人に入ったが子の義村に賞を譲っている。

武勲で名を上げたタイプの武将になるようです。

八田 知家(はった ともいえ)源義朝の落胤説あり

源義朝というのは、頼朝、義経の父親に当たりますから、本当に落胤(認知されない子供)であったとしたら、まかり間違えば、大変なことになっていたかも知れません。現在の茨城県つくば市にある小田城(おだじょう)を築城した方として知られています。

 

鎌倉殿の13人のあらすじについて

なにせ、原作小説とかがあるわけではないので、あまり細かいあらすじについては公表されていませんが、

一番確実な情報は、なんといってもNHKさんでしょうね。

平家隆盛の世、北条義時は伊豆の弱小豪族の次男坊に過ぎなかった。だが流罪人・源頼朝と姉・政子の結婚をきっかけに、運命の歯車は回り始める。
1180年、頼朝は関東武士団を結集し平家に反旗を翻した。北条一門はこの無謀な大博打ばくちに乗った。
頼朝第一の側近となった義時は決死の政治工作を行い、遂には平家一門を打ち破る。
幕府を開き将軍となった頼朝。だがその絶頂のとき、彼は謎の死を遂げた。偉大な父を超えようともがき苦しむ二代将軍・頼家。 “飾り” に徹して命をつなごうとする三代将軍・実朝。将軍の首は義時と御家人たちの間のパワーゲームの中で挿すげ替えられていく。
義時は、二人の将軍の叔父として懸命に幕府の舵かじを取る。源氏の正統が途絶えたとき、北条氏は幕府の頂点にいた。都では後鳥羽上皇が義時討伐の兵を挙げる。武家政権の命運を賭け、義時は最後の決戦に挑んだ──。

引用:NHK2022年 大河ドラマ「鎌倉殿の13人」より

流石はNHKの記事ですね。期待が膨らむじゃないですか。どのように北条義時を描くのかが興味深々ですね。

鎌倉殿の13人 13人とは誰のこと?についてのまとめ

2022年の大河ドラマ「鎌倉殿の13人」に絶対登場するであろう、13人の武将(公家の方もいました)についてまとめてみました。いかがでしたでしょうか。鎌倉時代って、本当に血なまぐさい時代だったんだなあという気もすれば、ドラマとして描くには、明日は誰が敵になるかわからない、

スリリングな展開も予想できそうです。

2020年は「麒麟が来る」、2021年は「青天を衝け」。

2022年は「鎌倉殿の13人」。今後、続々と主要キャストも決定していくことでしょうけど、この俳優さんがこんな役どころなんだと、いろいろ思いを巡らせながら放送を待ちたいと思います。

鎌倉殿の13人の原作はどんな本なのか?

鎌倉殿の13人の原作はどんな本なのか?

源頼朝と鎌倉

「鎌倉殿の13人」は、いわゆる原作となる小説がありません、ですから歴史的背景についてはいろいろな書籍に散りばめられている情報を確認することになるでしょう。こんな本を読んでみるのも一つの手でしょうね。

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